忘年会スルーという言葉に、お尻がムズムズする30代です。
「忘年会スルー」という言葉が特集されている。
これは、忘年会に行きたくないという主張だ。若者に限らず、中年でも、年配でも、忘年会に行きたくない人は昔から存在している。
毎年12月になると街頭インタビューで取り上げられるありふれた話題だ。ただ、「忘年会スルー」という言葉は、今年初めて聞いたように思う。どこかの人権団体が流行らせようとしているのかもしれない。
僕は、忘年会はスルーはしない。したいと思ったこともない。何とか参加できないかを考えている。むしろ楽しみにしている側だ。
もちろん、「あの同僚マジうざい。いつか殺してやる。」とか「なんでこんな上司の説教を受けなければいけないのか」とか、毎日のように思っていて心が崩壊してしまうような状況に陥っている人にとっては苦しいだろう。いかにして参加しなくて済むかを真剣に考えるべきだろう。
でも、少し違和感を感じている。「忘年会スルー」という言葉の響きに。この軽さに。
忘年会スルーを乱発する人ってどんな人なんだろうか?
「できれば、行きたくない。でも、暗黙の強制っぽい。行かないことは罪ではないが、参加する人が多数派の場合は行くしかない。参加しない人が多数派であれば行かないけどね。みんなどうなんだろう・・。」なんて、周りの動向や顔色を窺っている人かしら?
こういった人は、忘年会に限らず、常々状況に応じて多数派に乗っかってしまおうと考える主体性の無さが見え隠れしていて気持ちが悪い。
そんな人が、「個人尊重の時代です」とか、「時間外なので無理です」とか、「金払って拷問に行くに等しい」等と、声高に主張しているのであれば。それって結構ダサい。
一方企業も「残業代を払うので参加してください」とか、正気の沙汰かと思う。それって組織なの?「そんなお願いすんなよ。クソダセェ。いっそ忘年会なんてやめちぇば?」って思う。
「距離が近くない人が要るから行きたくない。」、「何話したら良いかわからない」。
普段のコミュニケーションで距離が近づかないなら、いっそ忘年会(時間外の食事会)というツールで距離が近づくかもしれないという可能性に賭けて参加してはどうだろうか。
すこーし頑張って振舞ってみてはどうだろうか。ポジティブな結果になれば良い収穫だろう。仮に、何の進展がなかったとしても「意味深い時間」が過ごせるはずだ。
今年の忘年会は、仕事関係とプライベートを合わせると7回ある。
あと3回残っている。
さあどんな話をしようか。あの人のどんな側面が引き出せるだろうか。
ではでは。